まんまりえりのストーリー

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ご覧いただきましてありがとうございます。
このページでは私「まんまりえり」のことを知っていただきたい、ということ

そして、どのようなポリシーでサイト運営していくのか
ということについてお話させていただきたいと思います。

あなたのお心になにか響くところがありましたら幸いです。

生い立ち

私は1982年、教員の父と幼稚園教諭だった母の第1子長女として産まれました。
1才半で弟が、5才で妹が産まれ3人兄弟となりました。

幼い頃から母から「ちぃママ」と呼ばれるくらい弟妹の面倒を見て、
小学校にあがってからはいわゆる優等生タイプのマジメちゃん。
小学校でも中学校でも生徒会の役員をやり、
高校入学時は生徒代表挨拶までしちゃうという・・・
いつでも自分に「肩書」を求めていました。

「お宅のお子さんは優秀だから・・・」周りの人からそう言われて
「そんなことないんですよぉ」と嬉しそうに笑い、
家に帰ってくると機嫌がいい、そんな母の表情を見て
「あぁ、私はこれでいい」と思っていました。

いつでも、行動・判断の基準は「母がどう思うか」でした。
母が私を周りの人に自慢できる私でありたかったのです。

しかし、高校3年生の進路を決める段階でハタ、と困ります。
「社会でどうやって生きていくの?」
自分のなかが空っぽであることに気付きます。

それでも、進路決定はしないと時間は待ってはくれません。
私は、とりあえず国公立大学に進学することを目指します。

しかし、私の偏差値はなかなか普通の大学を目指すには厳しい状況。
助けになったのは、母の意向を強く受けてイヤイヤ続けてきたピアノでした。
私は、体質的に手と足に異常に汗をかいてしまう多汗症...
母に辞めたいと言えず、幼稚園から高校までズルズルと続けてきていました。

国公立大学の教育学部の音楽専攻は、二次試験が実技であるために
他の学部よりも偏差値がそれほど高くなく、私の学力でも射程圏内でした。
受験でピアノを使うつもりもなく習っていたのですが、
急きょ受験用に本腰を入れて練習に取り組みました。

そして、なんとか合格。
母は泣いて喜びました。

その大学は、母が進学することを希望するも叶わなかった大学でした。
私は音楽の先生になりたかった母の夢の第一歩を叶えたのでした。

大学時代は、苦手なピアノを課せられることが苦痛でなりませんでした。
そしていかに自分が劣等生であるかを思い知らされ、本当に辛かったです。

それでも、大学では出来る限りの単位を揃えて、
取得できるすべての免許を取りました。

そして、大学生活で得たものは免許だけではありませんでした。
大学に入学してすぐに混声合唱サークルに入り、
彼と出会い4年間付き合って卒業。
一生のパートナーとなることを確信したのです。

社会に出て・・・

教員採用試験は現役では合格できず、
社会人1年目は講師として自律支援学級の担任となりました。
実家に戻り、近隣の小学校で働きました。
講師とはいえ教員として働く私に
母は大変満足そうでした。
2年目にして採用試験に合格して、実家を出ました。

初任者として赴任した小学校で、
私は「学校」という場の閉塞感
ずっと一歩外に出れば、「先生」として見られることの束縛感・・・
息苦しくてたまらず、2年で結婚退職することを選びました。

結婚してから、半年間はコーヒーショップでアルバイト。
まだ社会人としてチャレンジしてみたいとハローワークを訪ねました。
そこで弁護士事務所の事務員の求人を見て
社会的にステイタスのある弁護士の元で働く、という点で惹かれ応募。
10数名の応募者がいましたが、無事に一発で採用されたのです。

知らなかった社会の仕組みがわかり、非常に面白かったです。
そして事務員として働いて3年目、いよいよ第1子となる長女Sunを授かります。

母になって

2011年。
あの日本中の価値観を揺るがした東日本大震災があった半年後に
私は母となりました。

「優秀な子に育てたい」
私は100万円超する幼児教育教材を一気買いし、
生後3ヶ月のSunに対し、日々教材を通して関わることを始めました。
英語、中国語、仏語、スペイン語…多言語CDのかけ流しに始まり、
様々な言葉をインプットすべくフラッシュカードを見せる日々。

育休明けからは、さらに効率よく教材を使って関わるかに苦心していました。
そんな生活で、Sunは毎週のように熱を出したり、
卵アレルギーも発症。
そして冬にはひどい中耳炎を患い、鼓膜切開手術まで受けることに・・・
半年間以上耳鼻科通いが続きました。

いつも何かに追われ、
心は常に焦燥感と同居していました。

そしてSun誕生から2年以上経ち、第2子を望むも叶わない日々がつづきました。
そしてSunが2歳半を過ぎたころ、待ち望んだ妊娠反応!!

そんな喜びもつかの間。
たった1ヶ月で、その命の灯は消えてしまったのです。

時を同じくしてSunに吃音の症状が出始めました。
「お、お、お母さん・・・」顔を歪め、語頭が何度も重なってしまうSun・・・

子ども達から私の子育てに対して強烈なNoを突き付けられた気がしました。

義務感と焦燥感で急かす様に毎日を過ごしていたのを、
教材を使う時間を減らし、Sunのペースをに合わせて
過ごすことを意識し始めました。

自分のこれまでの子育てに疑問を持ち、生活リズムを変えることで
心に余裕ができたのか、それから間もなく第2子となる次女Moonを授かります。

「子育ち理論」との出会い

私の妹が1才の男の子の育児に行き詰ってたどり着いたのが
静岡のおもちゃ屋の店主遠藤氏の「子育ち理論」でした。

子育ち理論の柱「子は 自ら 育つ」
この大前提を妹から聞かされた私は呆然となります。

子どもは何も知らない状態だから、そもそも教え込まなければ!と
膨大なお金と時間をかけてきた私の価値観が大きく否定されたことに
最初は大きな抵抗感を覚えました。

それでも妹の話を聞き、落ち着いていく甥っ子の様子に
妹から子育ち理論の概要を聞き、手探りで生活を整えていきました。

「子育ち理論」の実践

翌年Sun4才、Moon1才の時に遠藤氏から年間7回の1日講座を受講し、子育ち理論を学び、
日々その実践を始めました。

  • マネで返すことでありのままを受け止める
  • シンプル過ごし、日々を同じリズムを繰り返すことで落ち着く
  • 生活場面ではその場に応じた指示を出す

この3つの柱を丁寧に繰り返していきました。
すると、みるみるうちにSunもMoonも落ち着いて行ったのです。

子育てから子育ちへ

講座を終えて1年。
私は、多額のお金をかけた幼児教育教材を手放すことを決めました。

それは、子育ちに出会うまでの自分の子育て観が
「母に認められたい」「すごいねって言われたい」
私の根底にその思いがあり、子どもをそれを実現させる道具として
みていたことに気が付いたからです。
それはまるで子からエネルギーを吸い上げていくバンバイアのように。

「子は自ら育つ」この理念のもと、
子育ちメソッドを実践してみたところの子の変化と、
私自身が母にこうして欲しかったんだ・・・
我が子を抱きしめながら、
自分のなかの幼い自分を抱きしめるようなそんな感覚がありました。

控えめで、空気を敏感に読み慎重派だった長女Sunは、
人の気持ちを読む底抜けに優しい子に

自己主張が激しくて、扱いづらいと思っていた次女Moonは、
意思を貫く強さを持った子に

見方が変われば、子は変わりました。

あんなに病気ばかりで、吃音まで出てしまったSunに
その面影は全くなく、皆勤賞の健康体に。
Moonもほとんど病気知らずです。

そんな子育ち生活が定着したころ、待望の第3子となる長男Oceanが誕生しました。

この間2度の引っ越しを経験しましたが、
どこに行っても可愛がられ、
新しい環境にスッとなじんでいく子ども達に
この上ない信頼感を感じました。

母親としてやるべきことは、
快適に過ごせる環境を整えること、
マネで返して、子のありのままを受け止めること。

目に見える手助けなんていらない時もある。

「信じて 任せる」
それは祈りにも似た感覚です。

いつでも明るく子を照らし、あたたかく包み、
子が育とうとするエネルギーを充電する存在であることを目指しています。

かつて、子からエネルギーを奪っていたバンパイア的だった部分は消え去り、
太陽のような存在になるべく日々を過ごしています。

このサイトでは、太陽のようなママを一緒に目指せるよう
私の経験や知識をシェアしてまいります。

最後までお読み下さりありがとうございました。


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